アンドリーナ、眠りの精と出会う
“7月18日大通り”、そこはこの都市を東西にわけるメインストリートだ。この都市がつくられた日をその名に持ち、今日はちょうどその日。西側は石畳の道と18世紀の面影が残るレトロな建物が並ぶ静かな町なみの旧市街。東側はしゃれたカフェや店が並ぶモダンという言葉がよくにあう新市街で、昼間は大勢の人々でにぎわう。だが夜になると多くの店が閉まり閑散としていてなんともわびしい。ただ、わずかに開いているレストラン・バーからもの悲しげなバンドネオンの演奏がかすかに聞こえてくるだけだ。
そんな夜の通りを一人の少女がとぼとぼと歩いてくる。彼女はアンドリーナ、15歳。ちょっと小柄なからだに黒々とした髪。目はくりっとしていて、なかなかかわいらしい。高校受験ということで塾はかなり遅くまで続いている。その帰りというわけだ。あたりは闇のとばりで覆われ、ぽつぽつとともる街灯がぼんやりと闇を照らしている。
通りはどこも無表情で 味気なかった。南半球にあるこの街は冬まっさかりで、木枯らしが吹きすさび、夜空にはどんよりと厚い雲がたちこめている。一人ぼっちで歩いていると、そのわびしさはなお深い。どうしてこんなに救いようがないのかしら、とアンドリーナは考えていた。なぜそんなに重い気分なのかというと、数学や理科の論述問題がからきしできなくて、志望校に受かるのは難しいと言われたからだ。
そのとき急に銀色にかがやく粉雪がはらはらと舞いおりてきて、アンドリーナの思考はとぎれた。―――おかしなことに、少しも冷たくない。その雪は道の北のほう、アンドリーナの通ってきた方角から吹いているようだった。振り返ると、今にも消えそうなぐらい弱々しく光る街灯の上に、ある光景を目撃した。
すらりと背の高い男性が、その街灯の上に静かにたたずんでいるのだ。月の光のような肌の色にすっきりとした端整な顔立ち。青く長いコートを着ている。その姿は繊細なガラスの置き物のように見える。
彼女が街灯の側に立っていると、街灯に何かを呼びかけているようだった。街灯は一瞬、うなずくように点滅した。すると、さっきまで死にかけていたような街灯の光があたかも息をふき返したかのように力強く、煌々と闇を照らしはじめた。それを見届けると、こちらに気がついたのか、その男はふわりと浮き上がると、あの銀色の雪のような光の粒を散らしながら、優雅に舞いおりてきた。
「だ・・・誰?魔法使い?」
アンドリーナはふるえた声で彼にたずねた。寒さでふるえているのではなく、あまりにふしぎな光景に出くわしたためであった。じっと彼女を見つめたまま、彼はこう答えた。その青い瞳はまるで夜空のようだった。
「人は皆、私のことを眠りの精とか、夢の化身と呼ぶが、生まれた世界ではエンツォと呼ばれていてね」
まわりの空気が薄くなるくらいのおだやかな口調でそう答えた。
「眠りの精?」
アンドリーナはびっくりして言った。たしかに彼女は、塾の帰りに光の粒についていって、彼に出会った。でも彼がほんとうに眠りの精だとしたら・・・
「それじゃあ、わたしが見ているのは―――」
エンツォはそばにやってきて、彼女の手に手をかさねた。アンドリーナは目をぱちくりさせている。
「少なくとも、今ここにあなたがいて、あなたの目の前に私がいるというのは確かだろう?」
あいまいな答え方だった。それでもアンドリーナは彼女なりに頭をしぼって、考えを述べた。
「―――つまり、わたしたちが夢と呼ぶ世界と、今わたしがいる世界がかさなりあっていると考えればいいのかしら?」
エンツォはほほ笑みながらこくりとうなずいた。
アンドリーナは今まで論理的な考えが苦手で、いつもテストの論述問題はまるっきりできなかった。なのに、これだけの考えがうかんだので、自分でもかなりおどろいているようだった。その間にも、夜空の雲は流れていき、その切れ間から星空が見えた。
「そろそろ仕事の時間だ」
急にエンツォが言った。
「仕事って?」
「街じゅうに夢を運ぶんだ。・・・見てみたいかい?」
そう言って誘う彼の言葉に、うーん、と言って考えこんでいたアンドリーナは、
「・・・うん。いっしょに連れてって」
と答えた。正直である。
「それじゃあ行こうか。・・・目を閉じて」
アンドリーナは言われるままに目をつむった。すると、彼女は急にからだが軽くなってきたような感覚をおぼえた。肌に感じとれるほどの闇のなか、つぎに、何かおおきな力によってゆっくりと吸いあげられていくような感覚を味わった。ちょっと怖い。天に召されるときも皆、こんな気分になるのだろうか?アンドリーナはそう思った。
「もう目を開けていいよ」
目を開けてみると・・・
眼下には、“7月18日大通り”のすべてが見わたせた。ホテルやレストラン・バーといった店や旧市街の家々、わずかな明かりもまるで一枚のタペストリーに織り込まれたもように見える。南のほうには海にそそぎこむ暗い青色のおおきな川がひろがっている。空を見上げれば、もの憂げな雲はすでに跡形もなく流れさり、無数の真珠をちりばめたような満天の星々がどこまでもひろがっている。それはとても美しい光景だった。
そう、アンドリーナとエンツォは今、いっしょに空を飛んでいるのだ。
「そういえば、まだ名前を聞いてなかったね。なんて言うんだい?」
エンツォがたずねる。
「わたし、アンドリーナって言うの。つばめという意味」
「つばめか。かわいい名前だね。気分はどうだい?」
「最高。ほんとうに鳥になったみたい」
さっきまでの目を閉じている時の不安はなくなり、あるのはおおきな開放感。
エンツォは銀色の光の粒を散らしながら、舞うように街中をとびまわる。その粒は家々のなかへと染み渡っていくのが見えた。彼についてアンドリーナが窓から部屋をのぞくと、子どもたちがベッドに入って眠りに落ちてゆくところが見えた。とてもかわいらしい寝顔。やはり彼は眠りの精なのだ。こうやって、いつも夢を配っている・・・。
「あのね―――ちょっときいていい?」
エンツォといっしょにかみそりのように細い三日月に乗ったアンドリーナがたずねる。
「なんだい?」
「さっき、あの街灯になんていったの?」
「“あなたには、夜の闇のなか、道ゆく人々を見守る役目がある。もしあなたがいなければ、多くの人々が道に迷うことになるでしょう”ってね。だれだって、困っているときや苦しいときには助けを必要とするだろう?」
じつに奇妙な答えだった。アンドリーナにはこれまで街灯の気持ちとか、街灯がこれまで多くの人々をずっと見守りつづけてきたことなど考えたことがなかった。だが彼にとっては、街灯は大切な存在だったのだ。
「物のきもちがわかるの・・・?わたしたちふつうの人間には、そんなわかり方は出来ないのよ」
ため息混じりにアンドリーナは言った。もうすでに、純粋な心は失われてしまったといわんばかりに。
「アンドリーナ、あなたは素直だ」
急にエンツォが言った。
「え?」
「私と話し合えるもわかる気がするよ」
その顔はどこかさびしげだった。瞳の色も、影がさしたような色に見えた。
「・・・」
アンドリーナはどう答えていいのかわからず、黙りこんだ。
満天の星空を二人はぼんやりと眺めていた。
エンツォが口笛を吹き始めた。美しく、やさしいかんじの曲だったが、どこか哀愁にあふれている。
曲が終わり、アンドリーナは感動した様子。
「なんて曲なの?」
「マヌエル・ポンセ作曲の“エストレジータ”だよ」
「“かわいいお星さま”、すてきな曲ね。・・・ねえエンツォ、わたしね、いい曲を聴くときまって悲しくなるの。どうして?」
その声は上ずっている。
「それはね、あなたが心で聴いているからなんだよ」
「いや・・・そんなとんでもない・・・街灯の気持ちも、わたしにはわからない。子どもならその気持ちがわかるかもしれない。だけどもう、あのころには後戻りできないのよ」
うつむいて、ぼそぼそつぶやくアンドリーナ。泣いているようにも見える。
「そんなことはないよ、アンドリーナ。あなたには、ほかの人たちとひとつ違うところがある」
夜空の深みから聞こえるような声で、エンツォはなぐさめる。
「それは、ものごとをあるがままの形で見て、聴いて、愛するこころだよ。私がこの街に来てから、話し合えた人はあなたがはじめてだ」
「でも、どうして?この世界にも、人はたくさんいるのに」
「だけど、私と分かり合える人はめったにいないんだ。考えてごらん、日常の中に、見なれないものが現れたら、だれでもおびえてしまうだろう?だけどあなたは私をすぐに受け入れてくれた」
そして、
「―――あなたの昼が日ざしにあふれ、あなたの夜が愛に満ちたものでありますように」
そう言ってエンツォはアンドリーナのほほにかるくキスをした。
目をさましたとき、アンドリーナは自分の部屋のベッドの中にいた。何もかも夢だったのだろうか。結局のところ幻想はあとかたもなく消えてしまったのだろうか。
「また受験勉強か・・・」
ポツリとつぶやく。
窓からは朝の日ざしがさしこみ、さわやかな青空が広がっていたが、こころは沈んだままだった。
その日の午後、はやめに塾を終えたアンドリーナは、帰りに最初にエンツォと出会った“7月18日大通り”のあの街灯の前に立っていた。昨日の夜と違い、とてもにぎわっていたけれど、道ゆく人々はだれも街灯に気を留めずに過ぎ去ってゆく。
「わたしはもう、エンツォに会えないのね」
そう思うとアンドリーナからため息がこぼれた。やはり何もかも夢だったのだ。
家に戻ると、太陽と三日月が描かれた絵はがきが一枚郵便受けに入っていた。そこには、
「あなたの昼が日ざしにあふれ、あなたの夜が愛に満ちたものでありますように」
と書かれていた。
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